引き篭もる大国への危機感

作成日:2007/01/20
私の担当しているWTO(世界貿易機関)では、現在新ラウンド交渉の最中である。この交渉の話も面白いのだが、交渉という性質上多くを語ることができないので、別の話題を一つ。

アンディグア・バーブーダ。このカリブ海に浮かぶ人口6万8千人の島国がWTOで米国を相手に「宣戦布告」したことが、通商関係者達の間にちょっとした衝撃を与えている。「戦争」の原因は、ネットカジノ。7月21日のWTO紛争解決機関公式会合で、アンティグア・バーブーダは、「米国がオンラインカジノを違法化している(注1)のはWTO協定違反である」として米国を提訴、これを受けて紛争解決のための小委員会(パネル)の設置が決定した。

WTOは協定違反の有無を判断するための独自の紛争解決手続をもっており、個々の紛争ごとに設置されるパネルは一審裁判所の位置づけとなる(注2)。この紛争解決手続によって「協定違反」と判断された各加盟国の政策、法律、処分などについては、国際法上の義務として変更を迫られることになるため、国内の政治や社会の都合もおかまいなしのある種やっかいな代物である。たとえば日本もかつて、「焼酎とウィスキーに課せられる酒税が異なっていることはWTO協定違反である」として、EU・米国から提訴され、敗訴したことがあり、これを受けて焼酎酒税の引き上げとウィスキー酒税の引き下げが行われた。

話が逸れたが、アンティグア・バーブーダは、そもそも「観光立国」だったのが、最近は立派な「オンラインカジノ立国」となっているらしい。政府が認可したオンラインカジノ事業者は100以上、政府に納める免許料と税は数百万ドル、そしてこの業界が雇用する労働者は3000人(人口の5%近く)に達する。ネットカジノの最大のお客さんはやはり米国人とのことであり、その米国でオンラインカジノが違法化されるということは、この国にとっては大きな痛手となる。

とはいえ、WTO提訴にもっていくというのは、並大抵のことではない。超大国米国にその中庭ともいえるカリブ海の国が…というのもさることながら、WTOの紛争解決手続は、多額なコストを要するのが通例だからである。WTO紛争自体は政府間の話であるが、やはり裁判類似の手続ということで弁護士が関与する(注3)。そして、弁護士にとってもWTO紛争というのは一時間に600ドルをチャージするのが相場というおいしい飯の種であり、大がかりな案件になると両当事国がそれぞれ1000万ドルを費やすこともあるという。こんな大金をはたきつつ、必ずしも勝算の明らかではない提訴に打って出ることにしたのは、まさに国家の存亡を賭した重大事であるとの悲壮な思いもあるのかもしれない。

ところで、「ネットカジノを違法化する」などということは、国内の政策の話であり、外国にとやかく言われる筋合いはないのでは、と思う方もいるかもしれない。しかし、WTOという所は、そういう話にまで外国から口を出され、場合によっては(WTO提訴という形で)手まで出される場所なのだ。今回の例からもわかるように、ある国の国内政策が外国の経済に多大な影響を及ぼすことがあるし、外国企業が国境を超えてビジネス展開をする上で国内政策は通商問題に直結するからだ。

アンティグア・バーブーダは、米国の措置がWTO協定の一つである「サービスの貿易に関する一般協定」(GATS)に違反する、と主張する。GATSは、モノを扱う「関税と貿易に関する一般協定」(GATT)と並ぶWTO協定の柱で、金融、医療、運輸、情報通信といったありとあらゆるサービスを対象としており、様々な規制のあり方について協定との整合性を求めている(注4)。

今回の件は、1995年のWTO設立以来、GATSを対象とする2件目の本格的な紛争となった。ちなみに、最初の本格的なGATS関連紛争は、米国が「メキシコ最大の通信事業者テルメックスと米国通信事業者のネットワークの接続に関する料金が高いのは、WTO協定違反である」としてメキシコを提訴した件である(なお、我が国も第三国として参加している)。このように、GATSに関わる2件の紛争案件がいずれも情報通信を巡って争われているというのは興味深い。情報通信自体が国境を越える性格をもち通商問題に巻き込まれやすいということと、情報通信がやはり成長と変化が激しく各国の利害対立が先鋭化しやすい分野であるということか。

このような状況にありながら、日本の情報通信関係者の世界では、(情報通信機器の関税の話を除けば)WTOというものの存在感は薄かった、と思う。誤解を恐れずに言えば、官民を問わず、この世界の住人が日本という規模が大きく収益性の高いマーケットに執心せざるを得ず、外国マーケットというものに関心を持つ必要性がさほどなかったからかもしれない。しかしながら、日本国内での競争の激化と世界規模でのマーケットの拡大により、日本というマーケットは相対的に中途半端な規模の存在となる可能性がある。香港やシンガポールのような、そもそも自国のマーケットを当てにできない国のWTOへの取組みの積極性を見ると、「引き篭もる大国」日本への危機感は募る。情報通信が新たな通商紛争の主戦場となる中で、WTO担当として国益のため何をすべきか、模索と試行錯誤の日々が続く。

(注1)6月10日、オンラインカジノのための支払いのクレジットカードや銀行口座による決済を禁止する「違法インターネットギャンブル資金提供禁止法」が米国下院で可決。ただし、競馬、グレイハウンドレース(犬のレース)、宝くじなど、ロビイングが効を奏した?ものについては例外になったとか。
(注2)WTOの紛争解決手続は、パネルと常設の上級委員会の二審制となっている。
(注3)アンティグア・バーブーダも、ギャンブル規制に詳しい米国の大学教授を始めとする米国の弁護士を雇っているらしい。
(注4)特に情報通信については、「GATS電気通信附属書(テレコムアネックス)」と「参照文書(レファレンスペーパー)」を通じて他分野以上に規制のあり方に枠がはめられている。